4回 故郷の歴史同好会 報告書

 

古代より信濃のこの地方は「小県(ちいさがた)」と呼ばれてきたが、平成の大合併を経て今では周辺の町村の多くは上田市と合併し(吸収合併され)、地名の上に小県郡と付しているのは青木村と長和町(長門町と和田村が合併)の2町村だけになっている。

 

今回、山本さんからは、市町村合併のメリット、デメリットについて、また明治の大合併、昭和の大合併、平成の大合併における全国の市町村数の推移等を総論的に踏まえた上で、昭和の大合併(昭和28年~36年)の中で、浦里村(浦野、岡、仁古田、越戸)と室賀村および小泉が合併して川西村(当時の推定人口6,500人)が成立する過程で、浦里村に属していた当郷が浦里村から分村し(川西村と合併せずに)青木村と合併したという歴史について報告いただいた。この当郷の青木村への合併は昭和32年(1957年)41日のことであったが、その16年後の昭和48年(1973年)に川西村は上田市に編入合併され、川西村は廃止されたこと、また平成の大合併により真田町、丸子町、武石村も上田市に合併されたことを報告いただいた。

 

今回出席者11名の中では、山本さんが唯一の当郷出身者であったが、昭和26年生まれ(早生まれ)の山本さんの年代はちょうど小学校1年に上がった時のことだった(ちなみに昭和23年生まれの宮原(豊)は小学校3年生の時)。既に59年も前のことであるが、世代(年齢)により受け止め方に大きな個人差があるようなので、何人かの人から思い出を聞いた。最年長の丸山さんは、その頃は既に東京で社会人となっていたので、その頃の記憶も感慨もあまりないとのこと。高橋さんや尾和さんも中学校を卒業した後なので、当郷の人たち(子供達)と小中校で学校生活を共にしたことはなかった。(今回は欠席の)岡田敦子さんは中学1年生から青木中学に入学したが、浦里小学校の友達と別れるのがつらかったと聞いたことがある。奈良本の沢村さん(23年生まれ)は小学校4年まで分校だったので、当郷の人の方が2年先に青木小学校にいたことになる。

 

山本さんが何人か自分の周りの人の意見を聞いたところでは、「当郷の住民は川西村ではなく青木村の一員になってよかったと思っている人が多い」と総括していたが、川西村が短かい年月の後に上田市に吸収合併された結果を見てのことと思われる。当郷の住民にとっても元の青木村の住民にとっても(双方にとって)メリットのある合併であった(成功した合併であった)と考えられると感想を述べたのに続き、以下のような意見が出された。

 

青木村にとって当郷が合併した意味は大きい。当郷の人口は青木村の人口の4分の1以上を占めている(合併時に比べて、全体の人口が減少傾向にある中で当郷の人口は相対的に減がなかったではないか。小林さんから、殿戸は隣同士であったから子供の時から当郷の人と良く遊んだとの貴重な話をお聞きできた。合併について当郷の人たちは真剣に話し合ったことであろうが、村境を超えた人と人との地域交流を通じて当郷の人も青木村に親近感を抱いていたことが合併と合併後の村の運営がうまく運んだことにつながるのではないかと想像する。

 

話は更に平成の大合併に及び、青木村は住民の総意として、上田市に合併しないことを決めた訳であるが、上田市と合併するメリットは少なく、デメリットが大きいとの判断であったことが話題になった。(高橋さんの話では)行政の合併より前にあった農協の広域合併の結果から判断し、行政上も上田市との合併には何のメリットもないどころか、デメリットばかりであると、そして上田市に合併された某町村の人からは青木村の選択が羨ましい(行政サービスや福祉の面で)と言われているとのことであった。

 

(最後に)今回山本さんが提示された長野県の行政マップを眺めながら、規模のメリットやそれによる効率を追求しようとする中央からの方針(押し付け)は青木村にとってはデメリットばかりだと、よくぞ全国的な時流に流されなかったものだと思う。

 

平成の大合併で上田市に合併しなかったことについては住民の総意であったとは言え、あるいは今も様々な意見があるのかもしれないが、今回の同好会を以上のように報告します。

 

                          (文責:宮原豊)

 

 

3回 故郷の歴史同好会 報告書

 

テーマ「青木精神と歴代村長の系譜~小林直次郎氏の影響」


1
、青木村成立よリ早い明治19年に青木学校が発足(学校の立地で調整困難なであったことや「青木」という名前の由来を教えていただきました)。
2
、小林直次郎氏は、明治21年~42年まで青木学校長。大正9年~昭和4年青木村長(その間、村長兼任で長野県議会議員・議長も務めている)。明治38年には後の「青木時報」に連なる「同窓会報」を創刊。
3
、大正9年青木村青年会発足。同10年「青木時報」が発刊される(第1期は昭和15231号まで継続)。時は大正デモクラシーの頃、編集主任は栗林一石路。さすがに対米戦争中(昭和16年~20)は刊行できなかったものの、昭和6年の満州事変後の軍部が台頭する厳しい環境の中でも政治的にかなりきわどい内容の記事が掲載された。戦後復刊し昭和21年~35年までが第2期。

 

4、「義民」関係の記事も多く掲載せられており、青木時報は青木精神醸成に大きな役割を果たしたが、これは青木学校長・青木村長を長く務めた小林直次郎氏をはじめとする先人達が培ったもので、それを源流とする自主自立の精神は今に脈々とつながっていると言えよう。

(文責:宮原豊)

 

 第2回 故郷の歴史同好会 資料

櫻田 喜貢穂

満蒙開拓団 関連年表

 

 

国内外

長野県の動き

1929

昭和4

世界恐慌の影響が日本に及ぶ。国内の失業者増大、農村不況深刻化

繭価暴落 1貫目:大正14年/10.14円 昭4年/6.49円 昭5年/2.55

1931

昭和6

916日満州事変 関東軍柳条湖の鉄道路線爆破

南信国民大会 決議文「国論を喚起し満蒙国策大儀を敷くべし」中原謹司

1932

昭和7

31日 満州国建国

86日 第1次武装農業移民492人神戸港出発

1月 長野県が満州愛国信濃村建設趣意書を作成

52日 信濃村建設資金募集 県全体で10万円 一戸平均35

81日 信濃教育会主催満州視察

1933

昭和8

75日 第2次武装農業移民455人原宿駅出発

24日 2・4事件608名が検挙される。

820日~924日 信濃教育会主催満州移民地視察

1936

昭和11

825日 広田内閣「7大重要国策決定」満州移民が国策となる。

県単独編成の開拓移民団送出 以後どんどん送り出す。

1941

昭和16

4月 日ソ中立条約

128日 太平洋戦争始まる。

124日 満蒙開拓青少年義勇軍長野県父兄会下伊那支部結成(会長:下伊那教育会長)

194244

 

送出続く。

1945

昭和20

710日 根こそぎ動員(召集免除が撤回され、18歳以上45歳以下の男子が根こそぎ召集され、開拓団には老人・女性・子供が残された。

86日 広島に原爆投下

88日 ソ連参戦通告→右欄へ

 

89日 ソ連軍が満州に侵攻

      長崎に原爆投下 

満蒙開拓団 死の逃避行が始まる。

810日 東安駅事件※1

812日 麻山事件※2

814日 葛根廟事件※3

815日 無条件降伏

816日 石碑嶺河野村開拓団集団自決

 

※1東安駅事件 関東軍が駅構内を爆破 避難中の開拓団の婦女子700人余が死亡

※2麻山事件 哈達河開拓団 ソ連軍戦車に襲われ多数が戦死。自決460人余。

※3葛根廟事件 ソ連軍戦車に襲われ開拓団婦女子1000人以上が死亡

 

 

満蒙開拓団に関する基礎知識

 

満蒙開拓団:1931年(昭和6年)に起きた満州事変から1945年(昭和20年)の太平洋戦争敗戦時に至るまで、旧満州国(中国東北部)・内モンゴル地区に国策として送り込まれた入植者約22万人のこと。

 

満蒙開拓青少年義勇軍:15歳~19歳の青少年を募集し、茨城県の内原訓練所で3ヶ月訓練し

     てから「北満」、つまりソ連国境の奥地に送り込み、国境警備にあてた。

     約10万人

 

順位 道府県

満蒙開拓団員

青少年義勇隊員

合計

 1 長野

31,264

6,595

37,859 (11.8%)

 2 山形

13,252

3,925

17,177 (5.3%)

 3 熊本

9,979

2,701

12,680 (3.9%)

 4 福島

9,576

3,097

12,673

 

 

 

 

  5 千葉

1,037

1,111

2,148

  6 神奈川

1,013

575

1,588

  7 滋賀

93

1,354

1,447

合 計

220,359

101,514

321,873

 

「開拓」の実態 

入植・開拓とはいうものの、もともとは現地人が持っていた農地を収奪し、日本から送り込

まれた農民が農地を支配し、農業を行うというもの。

 

「開拓団」の実態

日本が満州を植民地化し、支配するための道具にされた農民集団。

太平洋戦争がはじまり、ソビエトが敵国として意識されるようになると、満蒙開拓団20万

人以上が、ソビエトに対する「人の盾」にされた。戦争末期には、徴兵を免れていた(徴兵

されないと言われていた)開拓団の男性も「根こそぎ動員」。軍隊に召集された。

 

悲惨な結末 

昭和20年8月9日、ソビエト軍が満州に侵攻した時には、関東軍は南に移動(逃げた?)

しており、女性と子供と年寄りがほとんどの開拓団は、ソビエト軍と現地の人たちの暴力に

さらされた。集団自決、収容所生活、過酷な引き揚げ。満州開拓団のうち8万数千人が亡く

なったと言われている。

この悲劇から、残留孤児や残留婦人など現在に続く問題も生じている。

 

満蒙開拓団と青木村

 満蒙開拓団は22万人以上(27万人との説もある)と言われているおり、長野県がダントツ

 で3万人以上を送り出しているが、青木村は、満蒙開拓団を送り出していない。青木村民は

 なぜ国策に乗らなかったのか。

 

1 いかなる国策か。

  昭和4年 世界恐慌の影響が日本に及ぶ。国内の失業者増大、農村不況深刻化。

昭和5年 繭の価格が大暴落。しかも56年と続けて大凶作→貧農を満州に送り込もう。

→満州事変を起こし→満州国をでっちあげる。

満州植民地化の人的道具。

経済目的:国内の貧農を満州に送り込んで自活させ(国内の農業経済の更生にもなる)、

満州の利権、満州から上がる収益を取得する。ソ連から満蒙の利権を守る。

軍事目的:「人の盾」としての軍事的な役割を担う。

 

2 なぜ長野県がダントツなのか?

  貧農でかつ8割の農家が養蚕農家 長野と東北が打撃を受けた。

(逆に、米を自給できる滋賀県は極端に少ない)

経済的要因があることは十分理解できるが、東北を抜いてダントツなのはなぜか。

2・4事件 (赤化)教員弾圧・左派農民運動弾圧・共産党弾圧によって、国策に反対す

る勢力を封じ込め、逆に転向した連中を活用。これは特に下伊那郡にみられる傾向。

「中心人物」の育成・信濃教育会による先導・扇動 教育県であることの国家による利用(つまり洗脳しやすい)

 

3 青木村が満蒙開拓団を送り出していない理由を考えるキーワード

(1) 農民一揆・・江戸時代の4回の農民一揆+明治2年の農民一揆

農民一揆の伝統、義民精神が息づいている「伝統的」精神風土が存在する。

 

(2) 「青木時報」

農民一揆の伝統を引き継いでいるのか?

「青木時報」の精神性・社会正義への強い関心→「中心人物」が育たないのか?

 

(3) 左翼的農民運動

農民一揆の伝統と関連するのか?

左翼的農民運動の存在が「中心人物」の出現を抑えたか?

 

「青木時報」とは何ぞや?

 

青木村誕生120年(1889年~2009年)を記念して「復刻 青木時報 全3巻」が出版された。それを上田市の平林堂書店のブログで下記のように紹介している。

 

◎大正デモクラシーが真っ盛りだった大正105月に誕生した地域新聞で、初代編集長は自由律俳人の栗林一石路。

◎大正105月~昭和36年まで41年間に392号を刊行。青木村の真の連携と文化形成に大きな役割を果たしてきた。

◎「時事の報道批判を掲載します」と宣言したうえで、政府の政策や干渉に対して度々激越な論文を載せるなど、「義民・反骨・自立の村」と言われる青木村の原点であり、その精神の歴史的文化財と言っても過言ではないでしょう。

 

「跡部郷那須の里のつれづれに」の注記に次のような記載がある。

幸いといっては叱られるかもしれませんが、青木村では、昭和8年(1933)青木時報(136号)で「満蒙信濃村の意図は資本主義の危機防衛にある」として「満蒙愛国村建設には反対せねばならぬ」と反対の記事を記載している。このことから村民一般は国の政策に協調して渡満した人は少なかったと考えられる。

 

「田沢郷中村誌編纂委員会編・中村誌」の「軍国主義から太平洋戦争へ」の満州・上海事変の下りに次のような記載がある。

「青木時報」132号(昭7・9・1)「三行調」に「満州事変の発端とする満鉄爆破の如きは真実は日本陸軍の仕業である」と喝破した記事は、戦時色一色になりつつある時としては注目すべき記事である。この時従軍していた、原潤(宮原義男)は「青木時報」129131号に「上海よりハルピンへ」と135号に「チチハル以北」と「戦線だより」を寄せている。

そして、この記述に続いて、原潤の「戦線だより『チチハル以北』」の一節の一部を掲載しているが、そこには「満州には夢も無いロマンスもセンチメンタルもないのだ!」との原潤の叫びが載せられている。

 

青木時報のすすめ -作家 井出孫六- (南佐久郡臼田町出身)

 

大正デモクラシーの中で生まれた「青木時報」は満州事変に出征した兵士の手紙で「満州」の実態を伝えた。満州信濃村建設どころか「青木村再建こそ現下の急務だ」という鋭い呼びかけがあって、青木村は満蒙開拓団を送り出さない数少ない村の一つになったことを忘れるわけにはいかない。広く読まれることを望みます。        (以上 櫻田喜貢穂)

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第1回故郷の歴史同好会の意見交換の際、この会に期待するところ、会の運営、あるいは関心テーマ等について出席者一人ずつから聞きしました。参加者から寄せられた意見を以下に略記します。

 

①満州国が建設された頃、満蒙開拓は国を挙げての国策で、長野県各町村からも数多くの開拓団が派遣されたが、青木村は開拓団を出さなかった数少ないところらしい。その背景に(山林あり養蚕ありで)経済的に豊だったことがあるにしても、易々と国策に乗らない青木村の人々の自立心を支える精神風土とはどのようなものか、昨今国会で安保法制が議論されている中で大いに関心がある(櫻田)。

 

②前の宮原毅村長と同級生(昭和6年生)で、青木の歴史には大いに関心がある。皆さんといろいろ話したい(丸山)。

 

③農民運動・義民に関心がある。明治・大正期には「青木時報」が優れた論述を展開、社会正義に基づく独自の情報発信をしていたが、こういうところにも「義民」から培われてきた精神性が生きていることを感じる(小林)。

 

④最近母の生き様などを思い出し、青木村とその人々のことを誇りに思う。これからボケないためにも故郷の歴史を一緒に勉強したい(山口)。

 

⑤上小や青木の歴史については、古代から近世まで語るべきことがたくさんある。古代には信濃は「馬」が重要。大法寺も重要な歴史遺産。しかし、最も大きな関心事項は「養蚕」の歴史。単なる養蚕ではなく、蚕の種を扱っていたことが豊さの理由ではないか。養蚕の歴史を語り継いでいきたい。(高橋)。

 

⑥「歴史」について語ることは多くないが、故郷の歴史を語り、考えるという共通の場を持てることが重要。この会を楽しく進めてもらいたい(尾和)。

 

⑦「常盤のみどり」の作詞家・作曲家は、当時としては有名なトップクラスの知識人であり、そういう人と親交のあった小林直次郎先生もまた一流の人であった。長野県の教育の発展に尽くされた先生の業績をもっと調べたい。中学の校庭の片隅に児玉源太郎の小さな石碑が立っているが、青木とどういう関係があったのか知りたい。村内に残された石碑を調べることも面白い(宮原清明)。

 

⑧時間が足りないという理由で中学・高校であまり習わなかった近現代史。自分に最も近い故郷の歴史から近現代史を学びたい(小林)。

 

⑨一般記憶ではなく自分たちの個人的な記憶として残っているエピソード記憶を、故郷の歴史の中で蘇らせたい(それが認知症予防につながると「天声人語」)。青木村を通り抜ける古代の主要道路・東山道の歴史を学校で学ぶことはなかったが、学校で習わなかった歴史を掘り下げたい。(住職が同級生と言うこともあるが)瀧仙寺本堂が400数十年ぶりに建て替えられているので、寺の歴史にも関心がある。昭和30年代に当郷が青木に合併したのは、全国の市町村合併の歴史でも稀有な出来事のように思うが、その背景、合併の効果、子供たちの学業に与えた影響等々について知りたい(宮原豊)。 

(文責:宮原豊)

コメント: 5
  • #5

    宮原 豊 (日曜日, 09 8月 2015 17:03)

    第1回故郷の歴史同好会の意見交換の際、この会に期待するところ、会の運営、あるいは関心テーマ等について出席者一人ずつから聞きしました。参加者から寄せられた意見を以下に略記します。

    ①満州国が建設された頃、満蒙開拓は国を挙げての国策で、長野県各町村からも数多くの開拓団が派遣されたが、青木村は開拓団を出さなかった数少ないところらしい。その背景に(山林あり養蚕ありで)経済的に豊だったことがあるにしても、易々と国策に乗らない青木村の人々の自立心を支える精神風土とはどのようなものか、昨今国会で安保法制が議論されている中で大いに関心がある(櫻田)。

    ②前の宮原毅村長と同級生(昭和6年生)で、青木の歴史には大いに関心がある。皆さんといろいろ話したい(丸山)。

    ③農民運動・義民に関心がある。明治・大正期には「青木時報」が優れた論述を展開、社会正義に基づく独自の情報発信をしていたが、こういうところにも「義民」から培われてきた精神性が生きていることを感じる(小林)。

    ④最近母の生き様などを思い出し、青木村とその人々のことを誇りに思う。これからボケないためにも故郷の歴史を一緒に勉強したい(山口)。

    ⑤上小や青木の歴史については、古代から近世まで語るべきことがたくさんある。古代には信濃は「馬」が重要。大法寺も重要な歴史遺産。しかし、最も大きな関心事項は「養蚕」の歴史。単なる養蚕ではなく、蚕の種を扱っていたことが豊さの理由ではないか。養蚕の歴史を語り継いでいきたい。(高橋)。

    ⑥「歴史」について語ることは多くないが、故郷の歴史を語り、考えるという共通の場を持てることが重要。この会を楽しく進めてもらいたい(尾和)。

    ⑦「常盤のみどり」の作詞家・作曲家は、当時としては有名なトップクラスの知識人であり、そういう人と親交のあった小林直次郎先生もまた一流の人であった。長野県の教育の発展に尽くされた先生の業績をもっと調べたい。中学の校庭の片隅に児玉源太郎の小さな石碑が立っているが、青木とどういう関係があったのか知りたい。村内に残された石碑を調べることも面白い(宮原清明)。

    ⑧時間が足りないという理由で中学・高校であまり習わなかった近現代史。自分に最も近い故郷の歴史から近現代史を学びたい(小林)。

    ⑨一般記憶ではなく自分たちの個人的な記憶として残っているエピソード記憶を、故郷の歴史の中で蘇らせたい(それが認知症予防につながると「天声人語」)。青木村を通り抜ける古代の主要道路・東山道の歴史を学校で学ぶことはなかったが、学校で習わなかった歴史を掘り下げたい。(住職が同級生と言うこともあるが)瀧仙寺本堂が400数十年ぶりに建て替えられているので、寺の歴史にも関心がある。昭和30年代に当郷が青木に合併したのは、全国の市町村合併の歴史でも稀有な出来事のように思うが、その背景、合併の効果、子供たちの学業に与えた影響等々について知りたい(宮原豊)。

  • #4

    櫻田喜貢穗 (木曜日, 05 3月 2015 20:00)

    「故山本政道さんを偲ぶ」
    平成27年2月24日早朝、山本政道さん(昭和17年生 木戸出身)が虚血性心疾患のため亡くなりました。72歳でした。いくらなんでも早すぎです。
    3月1日夜、「お別れ会」が板橋区の蓮根レインボーホールで催されました。尾和剛一会長ら青木村の同期生8名が参列しましたので、私も同行させてもらい、お別れをしてきました。

    「お別れ会」は、埼玉弁護士会の会長の弔辞に始まり、自由法曹団の団長、修習同期の弁護士や学生運動時代の仲間など10名ほどの弔辞が続きました。学生時代からの友人や労苦を共にした友人たちの弔辞は、山本政道さんの正義感、情熱、一貫してぶれない考え方や心情を浮き彫りにし、涙と、ときに笑いを誘いました。北京で毛沢東から武力革命をそそのかされたさい、日本には平和憲法があるからと決然と断ったエピソードも紹介されました。
    「熱血人権派弁護士」というのが山本さんに対する一般的な評判であったようです。参列者へのあいさつに立った奥様は、政道さんは若いころ「絹の道=シルクロード」を歩いてみたいと言っていたが、結局のところ一貫して歩んだのは「人権の道(人絹の道)」だったと語られました。これからは二人で「木綿の道」を歩こうと思っていた、それなのにさっさと一人で逝ってしまったと残念がっていましたが、本人は死ぬまで好きなことをやり通したので満足だったことでしょうと結びました。
    亡くなる直前までやっていた好きなことというのは、集団的自衛権行使の閣議決定を撤回させる運動の準備だったそうで、やはり山本さんは間違いなくお父さんの遺伝子を引き継いでいたようです。

    弔辞を拝聴しながら、私は山本さんとの思い出に浸っていました。私にとって山本さんは、「熱血人権派弁護士」というよりは、優しくて穏やかな同郷の先輩弁護士でした。
    私は、山本さんよりも5歳年下なので、子どものころには接点はなかったのですが、司法試験の勉強を本格的に始めた昭和51年ころ、偶然東京で出会いました。友人の紹介で、勉強会に参加できることになったのですが、その勉強会の上級クラスに山本さんがいたのです。初対面のとき簡単な自己紹介をしたら直ちに同郷であることがわかり、お互いにびっくりしました。その後、山本さんは昭和54年に合格するのですが、53年から54年にかけて私は山本さんに何通も論文の答案を添削してもらっています。
    遅れること9年、昭和63年に私がようやく合格したとき、山本さんもたいそう喜んでくれ、祝賀会に来てくださいました。そのあと、青木村の同級生が女将をしている新橋の居酒屋に連れて行ってもらい、夜更けまで飲んだ記憶があります。
    私が弁護士になってからは、たまに裁判所で顔を合わせることがあっただけで、「今度一杯やろう」と声を掛けあったものの、結局それは果たせずじまいでした。
    しかし、実は、二人で相談し、共同で行ったことが一つだけあります。平成16年の秋、毎日新聞社から、母校(小学校と中学校)の後輩たちに1年間、子ども新聞・学生新聞を贈呈してくれないかという要請がありました。毎日新聞社は山本さんにも同様の電話をしていましたので、私と山本さんは電話で協議し、二人の連名で、青木小学校と中学校へ子ども新聞・学生新聞を贈ることにしました。1年が経つとまた毎日新聞社から電話がありました。更新の要請です。毎年、更新の要請があると、どちらからともなく連絡を取るのですが、山本さんも私も断れません。いつも、「もう1年続けようか」ということになり、結局平成22年ころまで続けたと思います。そこで止めたのは、私どもの方から断った記憶がないので、毎日新聞社から更新の要請がなかったからでしょう。母校に新聞を贈るというキャンペーンが終わったのかもしれません。
    山本さんがこんなに早く逝ってしまうなんて想像もできなかったのですが、この二人の共同作業が山本さんの思い出として私に残りました。
    いまはもう、ご冥福をお祈りするほかありません。
    (2015・3・5)

  • #3

    岡田敦子 (日曜日, 08 2月 2015 16:02)

    東京青木会に参加しましょう!
     
    「東京青木会?何これ?」三、四年前初めて葉書を手にしたときの感想です。ただ、千曲市出身の夫が「関東千曲会」に時々兄弟と連絡を取り合って参加していましたので、それと同じような会なのだろうとは思いました。最初の年は、総会終了後、同じ学年の人たちと上の喫茶店でおしゃべりし、同窓会気分で楽しいひとときでした。今年は「故郷を巡る旅」に参加。役場の皆様が添乗員並に、マイクロバスの運転から、歴史文化資料館の解説まで、とてもきめ細かく応対して下さり、何と、十観山の登頂も果たしました。故郷のことなど、何も知らない状態でしたが、修那羅峠の石仏や、五島慶太生家など巡り、たくさん解説していただき、少し故郷の歴史がわかってきました。「ますや」に宿泊して全員で大いに笑い転げ、楽しい旅でした。第二の人生をすごしている方には「教育?」と「教養?」が必要とか。すなわち「今日行くところがある」「今日用事がある」が、大切なことだそうです。「東京青木会」に入って、人脈を広げてみませんか?思いがけない出会いがあるかもしれません。会員一同お待ちしています。

  • #2

    櫻田喜貢穗 (土曜日, 17 1月 2015 17:02)

    「青木の郵便局」

    はじめて投稿いたします。
    まずは、自己紹介です。庶民と中小企業を依頼者とする民事事件中心の弁護士をやっています。25年ほどになります。特に専門分野であると誇れるものはありませんが、依頼者の話にじっくりと耳を傾けながらも、決して依頼者の道具に陥ることなく、依頼者に添って、依頼者の幸せを考えていく、そして能力が足りない分は粘り強く頑張ることで補う、というあたりが私の特徴でしょうか。櫻田法律事務所は半蔵門の近くにございます。
    生まれは昭和22年11月で、村役場のそばに20年ほど前まで亀屋(本店と分店)という商店があったのですが、それが私の生家です。母の津やみは、亀屋の一人娘でしたが、昭和25年に分家して、亀屋分店という商号で、文房具の商いをしておりましたので、ご存知の方も多いのではないかと思います。

    その亀屋ですが創業者は曽祖父兼次郎です。兼次郎は、中村の櫻田岩次郎の二男として安政5年に生まれ、明治5年に14歳で分家し、そのころ、浜松から移住してきた瓦屋石川善兵衛に弟子入りして、瓦の製造を学び、その後、下奈良本で瓦屋を開業しました(「跡部郷 那須の里のつれづれに」による)。
    明治23年、新道(長野県第二線路 現国道143号線)が開通するのですが、その直前の明治20年(1888年)ころ、兼次郎は旧道(東山道)と新道が交差する現在の村の中心地を取得します。おそらく、石川善兵衛氏から譲り受けたものと思われますが、兼次郎は、その場所で瓦屋ではなく、村で最初の小売商店を始めました。酒以外は何でも扱う「万屋」で、屋号を「亀屋商店」といい、自らを「亀屋兼治郎」と称しました。
    ちなみに青木村は、市町村制の施行に伴う明治22年(1889年)4月1日、村松郷、奈良本村、田沢村、沓掛村、夫神村、殿戸村の6村が合併して発足しています。
    □■□■□

    ところで、明治4年(1871年)、郵便法が制定され、翌5年7月、上田に三等郵便役所が、同年9月、浦野に郵便取扱所が開設されました。青木村一円は同所の区内で、1日10通か20通の封書やはがきが配達されていたにすぎなかったのですが、日清戦争のころから郵便が増えだしたため、村にも取扱所が設置されることになりました。といっても当時公費が乏しかったので、明治政府は地域の名士や大地主らに郵便取扱業務を委託するわけです。青木郵便受取所が設置されたのは明治34年(1901年)3月15日、取扱人(受託者)には、ますや旅館の主である宮原庄右衛門氏が任命されました。設置された場所は亀屋商店の一隅でした。兼次郎が亀屋の建物の一部を青木郵便受取所に賃貸したわけです。
    そして、明治36年8月20日、宮原庄右衛門氏は、亀屋の敷地のど真ん中に白壁の洋風2階建の局舎を建てます。この庁舎はハイカラなものでしたから、村人に注目されたそうです。兼次郎は、今度は敷地のど真ん中を宮原庄右衛門氏に賃貸したわけです。その後、青木郵便受取所は、明治38年4月1日、三等無集配郵便局になり、同39年3月26日、三等集配郵便局に昇格しました(この項は、田沢郷中村誌編纂委員会編 「中村誌」による)。

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    時代は明治から大正、そして昭和に入ります。母津やみが上田の女学校に通っているころですから、昭和5年前後のことであると思いますが、私の祖父亹男は、青木郵便局の宮原氏を被告として、上田の裁判所に建物収去土地明渡請求の訴を起こしました。上田市の弁護士との裁判資料の授受は女学校へ通う母の担当であったそうです。
    兼次郎と宮原庄右衛門氏との間で締結された郵便局敷地の借地契約が、いつ、どのような理由でトラブルになったのかはわかりません。単に亹男が立ち退きを求めただけかもしれません。結果的に亹男は、建物を収去してもらい、土地を明け渡してもらっています。勝訴したのか、訴訟上の和解による結果なのかは知りません。母にも聞いたのですが、母も知りませんでした。おそらく知らされなかったのでしょう。
    こうして青木の郵便局は、亀屋の敷地から、沓掛温泉に向かう街はずれの田沢川のほとりに移ったのでした。おそらく皆さんの記憶にある郵便局は、田沢川のほとりに佇む石造りの建物ではないですか。

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    東京青木会のホームページの伝言板に「『禁酒会』について思う」を寄稿された宮原豊氏の生家はますや旅館ですから、同氏は85年前の被告の孫であり、私は原告の孫になります。宮原豊氏は、ジェトロ勤務で海外駐在が長かったのですが、インド(ニューデリー所長)から日本に戻ってからは国内で活躍されていますので、ここ数年はしばしば「飲酒会」を催し、親交を深めております。同氏にも祖父たちの訴訟のことを尋ねたのですが、親御さんから何も聞いていないとのこと。いまや先祖同士の確執は、酒のつまみとなり、ご先祖様も喜んでいることでしょう。
    (2015・1・15 櫻田喜貢穗)

  • #1

    宮原 豊 (木曜日, 11 12月 2014 15:04)

    「禁酒会」について思う。
    父は大酒飲みで知られていました。東京オリンピックの頃ですが、里帰りした父の妹たち(つまり私の叔母たち)は「あの大酒飲みのあんたの父さんも東京にいる頃に禁酒会に参加していたらしいわよ、おかしいね」と笑いました。「禁酒会?」という不思議な響きが今も脳裏に残っています。
    2013年6月16日(日)に第70回東京青木会総会が開催されました。もう2年近く前になりますが、この時初めて東京青木会のルーツを知りました。東京青木会の歴史を遡ると、青木村出身の関東周辺在住者の懇親会は大正7年に発足し、95年続いていると知りました。青木村出身の五島慶太氏(旧姓小林)の尽力により千代田区三番町旧上田藩邸内に千曲寮が完成、初代管理人になったやはり青木村出身の早川喜八氏が「禁酒会」をスタートさせたのが始まりだそうです。前身も含め東京青木会は、戦争中などに何年か中止していたことがあるために、2013年は年次総会としては70回目の記念すべき大会でした。
    「禁酒会」と聞き、叔母たちが言っていた「父が参加していた禁酒会」の話がよみがえりました。父が東京にいたのは旧制中学を卒業して逓信省勤務の頃で、昭和10年代中頃に松本連隊に招集される迄のことです。きっと軍部の台頭により圧迫感が増していく時代だったろうと思います。だから飲む酒もなく本当に禁酒をしていたのかもしれないと真面目に考えました。ところが、会の歴史に詳しい高橋会長は「禁酒会は飲み会だよ」とバッサリ。あぁ、このユーモアあふれるネーミングに感心しました。
    五島慶太氏がバックにいたわけだし、青木村出身の若者にとっては食べさせてもらえるし飲ませてもらえる楽しい会だったのだろうと想像します。特に昭和大恐慌以降、普段ひもじい思いをしていた田舎出の若者にとって「禁酒会」に出席するのは当然ではないですか。その頃は大っぴらに「飲み会」とは言えない風潮の中で、そこが唯一楽しく過ごすことのできる場所だったのかもしれません。
    時は戦後になって、焼け野原の東京で海軍出身の若者たちが勉強会を重ねていました。はみ出し者を自称していたので「半纏会」と名付けたそうです。その中に何故か陸軍出身の五島昇氏が一人参加しており、聞けば毎回五島家で開催されたらしいです。何故か?「五島家には何かしら食べ物があったし酒もあった。だから自然とみんな集まるようになった」と、中曽根元首相と親しかった赤澤璋一氏(通産省出身、元ジェトロ理事長)、永末英一氏(元民主党委員長)、中川幸次氏(元野村総研社長)等の思い出話で盛り上がる座卓の末席で聞いたことがあります。今から30年以上も前、中曽根政権誕生の前年のことです。「ただ食って飲んでいただけではない。日本の将来についてよく議論したよ。でも食い物も酒もあったから会は続いた」と正直です。今思えば食べ物で緊密な人間関係が形成できた古きよき時代のことです。
    翻って、飲食に満たされている今の時代は戦前・戦後と違い、若者が集まるには何か別の理由が必要だと思います。「昔話」をするのが集まる理由で悪いわけではないのですが、若者を引き付けることは難しいです。今まで100年続いてきた東京青木会を次世代に繋いでいくことはそれだけで価値あることと思いますが、それをどのように引き継いでいくか、知恵と工夫が必要なようです。